国内出張がサイアクな訳

今週末にジョージ・クルーニー主演の「マイレージ、マイライフ」(原題:Up in the Air)という映画が日本で公開される。皮肉なことに、この映画を日本行きの機内上映で見たのだが、仕事のほとんどが出張で航空会社のマイルを貯めるのが生きがい、という設定の主人公に「いるよな~、こういう人」と妙に納得してしまった。そして、アメリカに帰ってくるフライトで隣りに座ったのが、まさにこれを地で行く人だったというのも笑えた。 Continue reading 国内出張がサイアクな訳

マスターズに見るフェミニズムとアメリカ社会

男子ゴルフのメジャー戦であるマスターズ・トーナメントが、ジョージア州のオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブで4月11日から行われ、13日にカナダ人のマイク・ウィアー(日本の新聞はみな「ウエア」となっているが、敢えてこれを否定)の優勝で幕を閉じた。 日本ではタイガー・ウッズや片山晋呉という視点からしか取り上げられていないが、今回のマスターズにはもう1つのハイライトがあった。それは国内のテレビ中継が完全にコマーシャル無しだったことである。「おお、さすがマスターズ」と早とちりするなかれ。この背景には、アメリカ社会の多くの矛盾が見え隠れしているのだ。 フェミニズムの標的、オーガスタ 今回のいきさつを説明するのに、まず会場となったオーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブ(以下、オーガスタ)について触れたい。オーガスタは全米で最も排他的な会員制ゴルフクラブの1つと言われており、伝統的に女性を会員として入れていない。しかし、ゴルフ場そのものが女人禁制というのではなく、会員同伴なら女性も自由にプレイすることができる。 これに対し、アメリカのフェミニズム団体は「女性の会員も認めろ!」と長年抗議してきた。しかし、オーガスタ側の主張は一貫していて、女性会員を認めない規律があるわけではなく、慣例としてこれまで女性が入っていないだけ、といい続けている。これに業を煮やしたフェミニズム団体は、マスターズのスポンサー企業をボイコットするといい始めた。 アメリカには不買運動という切り札がある。活動家たちはこれを上手く使うことで、自分たちに有利な状況を作り出していくのだ。しかし、驚いたのはオーガスタ側の対応だった。クラブのことで他者を巻き込むのは不本意だから、今年はスポンサー無しでいくと決めたのだ。これにはフェミニズム団体もスポンサー企業も度肝を抜かれた。 フェミニストたちの会場外での抗議もむなしく、マスターズは結局、テレビコマーシャルをはじめとする一切の広告抜きで終結を迎えた。オーガスタ側は、テレビ中継を行ったCBSに対する広告料の損失額(想定2000万ドル=約24億円)や、トーナメントの開催費用など、すべてに自腹を切った。しかし、今回の軍配はプライドを守りきったオーガスタに上がった。 というのも、この件において、フェミニズム団体はアメリカ人女性すら味方につけていないのだ。オーガスタが女性に開放されたところで、会員になれる女性が一体何人いるというのだ、というのが議論のポイントになっている。会員になるためには、小国が1つ買えるくらいの年収、社会的な地位、既存会員からの推薦など、さまざまな条件を満たしていなければならない。フェミニズム団体が金切り声をあげて騒いだところで、その恩恵を受けるのは、富豪でゴルフ好きなほんの一握りの女性だけだ(全米で5人くらい?)。男女平等とはまた次元の違う話ではないか、という見方をしている女性が多い。 また、ある女性コメンテーターがテレビでこんなことを言っていた。「だいたい、白人のじいさんしかいないようなクラブに入って何が楽しいの?私ならタダでも遠慮しておくわ。それにあのダサい緑のブレザー(会員に渡されるオーガスタのシンボル)を着たい女性なんかいるのかしら?」 フェミニズムに限らないが、さまざまな団体が本来の目的とかけ離れた活動を行う姿が、アメリカで顕著になっている。「女性の地位向上」と言いながら、自分たちの知名度が上がりそうな、金になりそうなターゲットを探し、それを次から次へと追いかけるのである。今回の一件は、その矛盾が最悪の形で露呈した格好 になったのだった。 アメリカの本音と建前 さて、ここまで読んでくれた方の中には、「平等の国であるアメリカで、そんな差別的なクラブがあるなんて…」と思った人も多いだろう。せっかくなので、ゴルフを通じて見えてくるアメリカについても触れておく。 アメリカのゴルフ場には、公共のものと民間のものがある。公共のゴルフ場において、性別や人種による差別があったらそれは大変な問題だ。憲法違反で裁判沙汰になる。しかし民間の、しかも会員制のゴルフクラブの場合、誰を会員にするかについては、それを組織する人たちで勝手に決めることができる。それは自由の権利なのだ。こういうゴルフクラブを作ったのはもともと白人男性なのだから、今でも女性や有色人種お断りのクラブがたくさんある。あのタイガー・ウッズだって、ツアー会場としてならプレイできるが、個人では足を踏み入れることのできないゴルフ場がいくつもあるのだ。 アメリカでは、パブリックとプライベートがあまりにもはっきりと分かれている。政府や公的な組織・活動などでは、差別的言動があってはならない。しかし、 プライベートで何をしようとそれは個人の自由。誰にも規制する権利はない。そこには、法で抑えつけている「平等」と、人間の潜在的な感情である「差別」が、ヤヌスの顔のように同居している。アメリカは日本以上に本音と建前の国なのだ。ゴルフクラブは、その本音の部分が分かりやすい形となって表れているに過ぎない。 アメリカが世界一の差別主義の国といわれる理由は、こういったところにある。表向きは平等主義を保っていても、やはり国の歴史そのものでもある差別的思想は、今でも社会のあらゆるところに残っている。それは性別や人種だけでなく、金のある人とない人、権力者と弱者、美人とブス(本当に!)などにおいても、如実に表れる。差別の問題は根深い。そして、それを何とかコントロールしようとすればするほど、パブリックとプライベートのギャップが大きくなっているのも事実なのだ。 最後に、蛇足で差別に対する個人的な見解を少し。 差別がすべてなくなれば、世の中が良くなるのだろうか。私はそうは思わない。逆の立場で考えれば、「女性だけ」とか「日本人だけ」に限定された活動ができなくなったらつまらない。小さな差別はお互い様ではないか。我々在米日本人は、こちらですし屋に行くと、日本語で板前さんと話せるアドバンテージを利用して、いいネタを分けてもらったりすることがある。そんな時、「日本人に生まれて良かったー」と感じる。しかし、それを横目で見ている隣のアメリカ人客の視線は嫉妬に溢れ、「これは差別だ」と訴えている。でも私は思う、「普段は外国人として差別されてるんだから、これ位いいじゃない」。そういうこともあるから、世の中は面白い。差別主義者になる気はないが、悪平等はごめんだ。